【📚本の紹介(ほんの しょうかい)】「俺(おれ)の夜間中学(やかんちゅうがく) 何(なん)のために学(まな)ぶのか―港湾労働者(こうわんろうどうしゃ)飯野正春(いいのまさはる)の半生(はんせい)」

おれ夜間やかん中学ちゅうがくなんのためにまなぶのか―港湾こうわん労働者ろうどうしゃ飯野いいの正春まさはる半生はんせい」(もり 善吉ぜんきちへん 連合出版れんごうしゅっぱん

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作者さくしゃもり 善吉ぜんきち(2000ねん逝去せいきょ)は、シナリオライターしなりおらいたー作家さっか人形劇団にんぎょうげきだん主宰しゅさい映画監督えいがかんとく多彩たさいかおをもつ。「おれ夜間やかん中学ちゅうがく」は1983ねん5がつ発刊はっかん大阪おおさか天王寺てんのうじ夜間学級やかんがっきゅう舞台ぶたい

まずしさのために小学校しょうがっこう満足まんぞくかよえず、形式中学けいしきちゅうがく卒業そつぎょう同和地区どうわちく出身しゅっしん飯野正春いいのまさはる半生記はんせいきノンフィクションのんふぃくしょん前半ぜんはんは、まれ故郷こきょう鹿児島かごしまで15さいデカンでかんデッチでっち)~17さいハッダはっだ船乗ふなのり(さかな行商ぎょうしょう)~運搬船うんぱんせんカシキかしき雑用兼賄ざつようけんまかない)~20歳はたち大阪おおさか仲仕なかし港湾こうわん労働者ろうどうしゃ)をしながら全港湾ぜんこうわん組合くみあい活動かつどうをしているところまで。後半こうはんは、奈良ならから35さい天王寺てんのうじ夜間学級やかんがっきゅう越境えっきょう入学にゅうがくし、仕事しごと学業がくぎょう両立りょうりつしていく様子ようすえがかれている。前半ぜんはん識字前しきじまえ後半こうはん識字後しきじご読替よみかえてもい。識字前しきじまえ識字後しきじごヒアリングひありんぐがよくされてきとした飯野正春いいのまさはる気持きもちと行動こうどうがわかる。とくに、識字後しきじごかれ行動こうどうすさまじい。夜間中学やかんちゅうがく全体ぜんたいとしての修学旅行しゅうがくりょこうでの校長こうちょうへの直談判じかだんぱん修学旅行しゅうがくりょこう参加さんかできないものが過半数かはんすういるのはおかしい→あたえられた前提ぜんていうたがう、あたらしいルールるーる創造そうぞう変化即応へんかそくおう)のエピソードえぴそーど秀逸しゅういつつぎ夜間中学やかんちゅうがくひとたちのためにも物申ものもうしていく姿すがたは、飯野正春いいのまさはる真骨頂しんこっちょうおもう。識字後しきじごに、職場しょくば学校がっこう仲間なかまのためにエネルギッシュえねるぎっしゅうごいていくかれ姿すがたとおして、家庭かていおや学校がっこう教師きょうしまなぶことはなにのためから学校教育がっこうきょういくありかたふかかんがえさせられる。かれ言葉ことば変遷へんせん鹿児島弁かごしまべん大阪弁おおさかべん奈良弁ならべん)も、折々おりおり生活感せいかつかん面白おもしろい。

夜間学級やかんがっきゅうでのかれ仲間なかま……金持かねもちがなんだ、身分みぶんがなんだ、貧乏びんぼうがなんだ、そんなものは台風たいふうでふっとんでしまえ、これも強烈きょうれつインパクトいんぱくと…。飯野正春いいのまさはるは、そのあと定時制高校ていじせいこうこう進学しんがくまなびをつづける。きていれば、わたし同年齢どうねんれい自立じりつし、わらずまなつづけていることとおもう。

作者さくしゃもり 善吉ぜんきちは、反骨はんこつひと映画えいがでも、同和地区どうわちく原爆げんばく国内外国人差別こくないがいこくじんさべつなどおもテーマてーまられている。夜間学級やかんがっきゅうかかしては、奈良なら私設しせつ夜間学級やかんがっきゅうの「うどん学校がっこう」がある。これもはやくたいものである。

吉井よしい かおる

なにのためにまなぶのか

飯野正春いいのまさはるさん 
港湾労働者こうわんろうどうしゃであった1976ねん、35さい大阪おおさか天王寺てんのうじ夜間中学やかんちゅうがく入学にゅうがくする。3年生ねんせいとき近畿夜間中学校生徒会連合会きんきやかんちゅうがくせいとかいれんごうかい会長かいちょう職場しょくばでは、全港湾ぜんこうわん安全衛生委員あんぜんえいせいいいんつとめる。当時は昼間ひるま中学校ちゅうがっこうく3にん父親ちちおやでもあった。ご存命ぞんめいなら84さい。おいしたいかたです。

サブタイトルさぶたいとるにあるとおり、ここには飯野いいのさんの夜間中学やかんちゅうがくとの出会であい、そこで獲得かくとくした「人間にんげんなにのためにまなぶのか」がじつじつストレートすとれーとかれている。著者ちょしゃ盛善吉もりぜんきちさんは奈良自主夜間中学校ならじしゅやかんちゅうがっこう記録映画きろくえいが「うどん学校がっこう」の映画監督えいがかんとく映像作家えいぞうさっか文章ぶんしょうはいきいきとして、夜間中学やかんちゅうがく仲間なかまたち、70年代後半ねんだいこうはん夜間中学やかんちゅうがくめぐうごきをえがきだしている。主人公しゅじんこう作家さっかも「まっすぐ」で、圧倒あっとうされてしまった。「まなぶ」とは何か、「文字もじ獲得かくとくする」とはどういうことか、みなかんがえるためにおすすめします。

飯野いいのさんは被差別部落ひさべつぶらくまれ、まずしさゆえ中学ちゅうがくはほとんどかず、15さい奉公ほうこうされる。やがて港湾労働者こうわんろうどうしゃとなり、搾取さくしゅ対抗たいこうするために全日本港湾労働組合ぜんにほんこうわんろうどうくみあいはいる。そこで、「だれか、字習じならうてい」とわれ、くじたって(!)天王寺夜間中学てんのうじやかんちゅうがくく。

このこの豪快ごうかいでまっすぐなおとこが「一番いちばんはじったはね、こわくてな。行きたいのが半分はんぶんきたくないのが半分はんぶんなわけや。(中略ちゅうりゃく)どうしよう、どうしようとおもうて学校がっこうのあたりをぐるぐる三回さんかいくらいまわったな」とのがなんだかおかしい。まさに人生じんせいえたくじだったわけだ。

そのときは、自分じぶん名前なまえとひらがながけるくらいだった。夜間中学やかんちゅうがく文字もじたない人々ひとびと出会であ、「教育きょういくける権利けんり」に目覚めざ人間にんげんらしい生活せいかつをする権利けんり」を実現じつげんするためにうごまわ姿すがた痛快つうかいだ。憲法けんぽう労働三法ろうどうさんぽうまな職場しょくばでは、労働者ろうどうしゃ団結だんけつのためにちから尽くくし夜間中学やかんちゅうがくでは、全員ぜんいん修学旅行しゅうがくりょこうけるよう、就学援助金しゅうがくえんじょきんけられるようにと校長こうちょう談判だんぱんする。まな人間にんげんらしくきるための武器ぶきであった。

当時とうじ天王寺夜中てんのうじやちゅうには400にんほどの生徒せいとがいた。病気びょうき学校がっこうけなかったひと被差別部落ひさべつぶらく出身しゅっしんちいさいときからはたらかないと一家いっかべていけなかったひと朝鮮ちょうせんのオモニ・アボジ、中国ちゅうごくブラジルぶらじる引揚者ひきあげしゃ沖縄おきなわ出身者しゅっしんしゃ戦争せんそう巻込まきこまれて学校がっこうけなかったひと

このほんは、夜間中学やかんちゅうがく関係者かんけいしゃメールめーるになり、さがしたところ千葉市ちばし図書館としょかん閉架へいか書庫しょこ1冊いっさつだけあった。奥付おくづけに1983ねん5がつとある。2かしょほど綴じとじがはがれそうで、こわさないようにそっとひらいてんだ。手元てもといておきたいほんだが、古本ふるほんのサイトをてもつからない。あとがきには、夜間中学生やかんちゅうがくせいオモニオモニのために活字かつじおおきくし、ルビるびをふった出版社しゅっぱんしゃへの感謝かんしゃ述べられているのべられている。その心遣いこころづかいに、ほんつくった方々かたがた心意気こころいきをもかんじる。いまおおくのひとんでほしいほんです。再版さいはんのぞみます。

宮田みやた 敬子けいこ 花見川区はなみがわく

※この文章ぶんしょうは「市民しみん千葉ちばをつくるかい」が毎月まいつきしているニュースにゅーす市民しみん千葉ちばをつくるかい」No.182(2025ねん5がつ1にち)に寄稿きこうしたものです。「市民しみん千葉ちばをつくるかい」におことわりして掲載けいさいします。(宮田敬子みやたけいこ