終戦直前(しゅうせん ちょくぜん)には家屋疎開(かおく そかい)が行(おこな)われました

也中やちゅう yachu》

(わたし)は、1945(ねん)昭和(しょうわ)20(ねん))4(がつ)(ころ)国民(こくみん)学校(がっこう)現在(げんざい)小学校(しょうがっこう))3年生(ねんせい)として現在(げんざい)兵庫県(ひょうごけん)加古川市(かこがわし)()んでいました。東側(ひがしがわ)神戸市(こうべし)西側(にしがわ)姫路市(ひめじし)のホボ中間(ちゅうかん)位置(いち)しています。瀬戸内海(せとないかい)にも(ちか)くその沿岸部(えんがんぶ)には(おお)くの重工業(じゅうこうぎょう)会社(がいしゃ)陸軍(りくぐん)飛行場(ひこうじょう)もありました。

このような位置(いち)のためからでしょうか。昼間(ひるま)から敵機(てっき)襲来(しゅうらい)サイレン(さいれん)()りやまず、そのたびに授業(じゅぎょう)中断(ちゅうだん)して校庭(こうてい)(つく)られた防空(ぼうくう)(ごう)()()毎日(まいにち)でした。

(よる)(よる)焼夷弾(しょういだん)満載(まんさい)してどこかの(まち)()(はら)うために()かうアメリカ(あめりか)爆撃機(ばくげきき)低空(ていくう)通過(つうか)してゆきました。

ある()自宅(じたく)()かい(がわ)(めん)する(かど)(いえ)から(かど)(いえ)まで(はし)から(はし)までつぶしてなくする作業(さぎょう)()ました。父親(ちちおや)(たず)ねると「家屋(かおく)疎開(そかい)」と()ばれ焼夷弾(しょういだん)()とされた(さい)にも延焼(えんしょう)(ふせ)ぐために家屋(かおく)間引(まび)いているのだと(はな)してくれました。

強制的(きょうせいてき)につぶされた家屋(かおく)家族(かぞく)たちはその()どこへ(うつ)って()ったのでしょうか。毎年(まいとし)(がつ)()るとこの過去(かこ)現実(げんじつ)(おも)()しやるせない気持(きも)ちになります。